先日の司法試験の発表の後、大杉教授のブログ“おおすぎ Blog”のエントリー「新司法試験合格発表・雑感」に、触発されて、このエントリーを書きました。
大杉教授の内容の以下の部分です。
そもそも、法とは、正義とは・・ って考えすぎるとドツボに嵌まる危険もありますが、(1)の「論点を深く考える」際には、「そもそも良い法律論(解釈論)、悪い法律論って、どういうものなのだろうか」という、少し高い視点を持つことが有用ではないでしょうか。
私は、大学時代に、政治思想史をほんの少しだけかじっただけの市井の法律家ですが、司法試験を受ける際に、その後の実務生活で法律について考える際に、よく立ち返る概念があります。大杉教授は、サンデルをお薦めされておられましたが、私は、職業としての政治 (岩波文庫)
が参考になった記憶があります。
この本は、政治家にはどのような人がなるべきかという点について、ウェーバーが1919年にミュンヘンにて講演したものを書籍化したものです。第一次世界大戦後のドイツでの講演という背景を理解して読む必要のある文献ですが、古典の中では非常に読みやすく、定価310円で買えますので、お薦めです。内容的に、司法試験と露ほども関係なさそうな文献ではありますが、私が影響を受けたのは、この本に出てくる「国家」の概念です。
大学生時代に受講した初宿教授(初宿正典教授。憲法、カール・シュミットの専門家)の「国法学」という講座では、「国家」の意味や要件は、論者や時代や文脈によって大きく異なり、100以上の定義があると教わりました。「国家」という概念は、それ自体に大きな意味があるものではないため、多くの定義があっても、不思議はありません。私も、ウェーバーの「国家」の定義のみが絶対に正しいというつもりは全くないです。ただ、この「国家」の概念は、法律・法規範というものを考える上において、極めて重要な概念ではないかと今も考えています。
さて、その「国家」の概念とは、以下のものです。
国家とは、ある一定の領域の内部で―この「領域」という点が特徴なのだが―正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である、と。国家以外のすべての団体や個人に対しては、国家の側で許容した範囲内でしか、物理的暴力行使の権利が認められないということ、つまり国家が暴力行使への「権利」の唯一の源泉とみなされているということ、これは確かに現代に特有な現象である。(マックス・ウェーバー著、脇圭平訳『職業としての政治』(岩波文庫)9頁、10頁)
国家も、歴史的にそれに先行する政治団体も、正当な(正当なものとみなされている、という意味だが)暴力行使という手段に支えられた、人間の人間に対する支配関係である。(引用終わり。同10頁、11頁)
この議論には、極めて有意義な議論が多く内包されています。ただ、1つ重要な点を挙げるならば、この国家概念には、法規範と道徳規範を峻別する決定的な違いが隠されているという点です。それは、法規範、すなわち実定法によって形成される国家規範は、国家の正当な物理的暴力行使を背景にした規範であるということです。この点は、道徳規範と根本的に異なる点です。道徳に反する行為をしても、国家の物理的暴力が発動することはありませんが、法に反する行為をした場合や、法によって導き出された紛争解決に従わない場合は、国家の物理的暴力が発動する可能性があります。
このことは、日本国憲法が、国会が国権の最高機関であり、国の唯一の立法機関であること(憲法41条)、国会は国民を代表した議員で構成・組織すること(憲法42条・43条)、国家が物理的暴力行使を発動するに際しては法定の手続によらなければならないこと(憲法31条)とは、密接不可分の関係にあります。
司法試験のレベルで言えば、「受験生の皆さん方が何を正当と思うか」等ということは、一切評価の対象ではなく、実定法、すなわち法律の条文から、一体、何が導けるのかということが問われていることを常に自覚しなければならないということです。そして、常に、その論理は、国家が独占する物理的暴力を正当化する論理でなければならないのです。
なぜなら、法律とは、どのような場合に、物理的な暴力を使ってでも実現すべきかという要件と効果が記載されている規範であり、既に、国会によって正当性が担保された規範であるからです。受験生の考える「正しさ」は、物理的な暴力を使ってでも実現すべき「正しさ」ではないのです。
もっと卑近な例で言えば、「思うに、」等という接続詞がでてくる答案は、採点者からすると、(極端に言えば)あなたの感想(価値観)なんて聞いていないと一蹴される答案です。あなたの思いは、法規範の正当性の根拠にはならないのです。法が何を考えているか、法の背後にある規範や価値観は何かを探りながら、未知の問題解決に道筋をつけるのが、法律家の為すべき作業なのです。
私は、常にこのことを意識して、法律を勉強し、答案を作成していました。今年、司法試験を合格された方も、残念な結果だった方も、いま、法律家になることを志しておられる方も、既に法律家になった方も、一度、この読書の秋に、『職業としての政治』を手に取られてみるのは、如何でしょうか。
なお、上記に記載させていただいたことのみをもって、「社会的相当性」等という言葉が出てくる学説はおかしい等と批判するのは筋違いです。また、このエントリーは、法律家がそれぞれ信じるところに従って己の正義を有することを否定するものではありません。これらの点、御留意の程、宜しくお願いいたします。
(追記:2010/9/22)
上記のウェーバーの本の引用にある「正当な物理的暴力行使の独占
」という部分は、「正統な物理的暴力行使の独占」の方が適切ではないかという指摘がありましたので、この場でお伝えさせていただきます。ドイツ語の原文では、“das Monopol legitimer physischer Gewaltsamkeit” のようであり、ウェーバーの概念を把握するにあたり、「正統性(legitimacy)」と「正当性(justification)」とは異なる概念として理解して、訳し分けておくべきであろうということでした。(@kazemachiroman さんありがとうございました) なお、上記の岩波文庫版の訳は、「正当な」となっておりましたので、そのまま残します。
素晴らしい。このエントリーで開眼する受験生も少なくないと思います!
コメント by おおすぎ — 2010年9月22日 @ 8:06 AM
勉強になりました。
>国家の正当な物理的暴力行使を背景にした規範
および
>「受験生の皆さん方が何を正当と思うか」等ということは、一切評価の対象ではなく、実定法、すなわち法律の条文から、一体、何が導けるのかということが問われていることを常に自覚しなければならない
については、イェーリングもまた示唆に富む発言をしていると思います。
とくに、法的判断に恣意的判断を加える『ヴェニスの商人』の裁判についての言及として、『権利のための闘争』序文(ルードルフ・フォン・イェーリング著 村上淳一訳 1982年,岩波書店)pp..16-25が、同じような見解だと考えました。
コメント by northstrongbow — 2010年9月22日 @ 2:35 PM
大杉教授
コメント、ありがとうございました。
このような発想をどこから得るか、というのは、人それぞれだと思います。このエントリーが、少しでも法律家の卵にとって、考えるきっかけとなれば、本当に嬉しいです。
northstrongbowさん
コメント、ありがとうございました。
イェーリングの『ヴェニスの商人』の裁判の話も有名だったように記憶していますが、原典(訳書)に当たったことがありませんでした。購入して、勉強します。
コメント by 管理人 — 2010年9月22日 @ 4:36 PM
国家はフィクションだと思います。
ただの作り物、実体のないものを定義してそれを考えることと法律の議論とがリンクするのでしょうか。国家はただの個人の集まりと考えるのが個人主義の当然の帰結ではないですか。
コメント by F原先生の弟子 — 2010年12月3日 @ 1:01 PM
コメントありがとうございます。
そのような考え方もあるかとは思います。一般的には、無政府主義に分類されるような考え方ではないかと考えます(私の方が誤解しているかもしれませんので、間違っていたら申し訳ないです。)
個人的には、法規範は、正統性を有する物理的暴力に裏付けされた規範であり、そのような(法律の)強制力が国家組織を密接不可分である以上、また、法規範自体が、国の最高法規たる憲法に由来した憲法を頂点とする論理の系であると同時に、国会が、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である以上、法律の議論と国家の概念は、切っても切りはなせないものと考えています。
法も国家も手で触ることのできるものではありませんが、少なくとも共同体を維持していくために必要な仕組みであるとは言えるのではないでしょうか。
コメント by M.Mori — 2010年12月5日 @ 12:21 AM